カミングアウトした

なんか、急にカミングアウトした。

 

私には今異性の付き合っている人がいる。「お前、アロマンティックなのに!?」と私ですら思うが、私はこの人と付き合うまで自分がアロマンティックだと確信出来ていなかった。その証拠(?)に、私が固ツイにしている去年の冬に書いたブログの中でも、アセクシュアルであることはほぼ確定していたものの、恋愛的指向がわからないなどと書いていて、Twitterのプロフィールにも「Aro/Ace」ではなく「Ace」もしくは「Aスペクトラム当事者」と書いていた。

 

付き合うことになったのは、相手から告白されたから。それまでも、私の経験上蓄積された「一般的に、恋愛的に好きな人へ行う言動」を自分に向けられているという感覚があったから、薄々告白されるかもな〜とは思ってはいた。その時は薄ら自分のAro感を感じていたものの、恋愛的指向というものがどういうものかそもそも分かっていなかった為に判断もつかないし、相手の人もそんなに悪い人じゃないから人生経験としてやってみるか、と思いOKした。

まぁなんか、やってみないとわかんないことってきっとあって、今それができるタイミングで、自分が傷つけられる可能性は低いだろうという条件の一致で、付き合うことにしたって感じ。その時は好きじゃなかったけど、「付き合ったら好きになるってこともあるでしょ」とシスヘテロの恋多き友達から言われたので、その説を信じてみたっていうのもあった。

 

結論から言うと、無理だった。私、全然アロマンティック人間。

 

 

まず付き合ってすぐくらいの時。塾が一緒なので塾が開いてる時間ギリギリまでいて一緒に駅まで行く生活をしてた(私は電車で相手はバス)。まぁそれなりに楽しく喋りながら行くんだけど、分かれて1人になった時にふいに、「あれ、これ女友達と何が違うんだろう?友達で良くないか?」などと思ってたことを鮮明に覚えてる。

その後、段々と相手が別れ際に「寂しいよ〜電車来るの早い〜😢」みたいなことを頻繁に言うようになった。

私はそもそも1人が好きだと自負している。1人で他県のコンサートに行ってご飯食べて帰ってくるなんてざらにある。しかもその時に寂しいとは全く思わない。全く。そもそも、一年のうちに誰かに会いたいと思うことなんてめちゃくちゃ仲良い友達ですら5回くらいだし、そんな出会って2ヶ月ちょっとの人に会いたいな、寂しいなとか思わないでしょ。

という感じなので、恋人の言う「寂しい」「会いたい」がマジで1ミリも共感できなかった。でも、私と相手の人の性格も、育ってきた環境も真逆に近いところがあるからしょうがないかな〜とも思ってた。

 

しかし、友達や家族と話す中で、この相手や世間の人の言う「寂しい」「会いたい」は【恋人に向けた特別な感情】だってことが判明した。

私の友達は恋多きシスヘテロ女が多いのだが、恋多きシスヘテロ女の皆さんは口を揃えて

「いやいや〜〜そんなこと言ってても、相手は彼氏なんだから会いたいとか寂しいから電話したいとか思うもんでしょ??だって彼氏なんだから、友達じゃないんだよ?」

といった主旨のことを言う。これを、私は理解はできても、自分の感覚としては全く"ない"感覚であり、きっと会得も出来ないものだと思った。これが辛いことの1つ。相手の言う「会いたい」「寂しいよ」に、決してどんなに努力しても同じ意味で応えられないこと。

 

夏休みに入り、水族館に2人で行くことになった。まぁそれなりに楽しかった。相手は良い人なので、魚を見て「これ食べれるんかな」とか「綺麗な魚だけ見たいわ」とかなんとか言う私に呆れず面白がって笑ってくれたし、展示の横にある文章を全て読もうとする私にもつきあって一緒に読んでくれた。やさしいな〜〜

あの人は、唐突に「手繋いでもいい?」と聞いてきた。なんで?と聞くと「周りのカップルが皆繋いでるし、だめ?」と聞かれたのでまぁいいかと思って手を繋いだけど、なんかいまいちしっくりこなかったし、なんか若干嫌だった。「手ちっちゃくてかわいいね」って言われたことも嫌だった。

色んな話をして、一日中一緒に過ごしてみれば、好きになるかな〜と思ってた。一日一緒に過ごしても、好きって気持ちは分かんなかった。なかった。嫌いなところが見つかったからでもなくて、めんどくさいからでもなくて、ただ、みんなが努力無しに抱く"好き"って気持ちが私の中に存在しなかった。

これは、母にカミングアウトする中でしっくりきた言葉なんだけど、【愛があるけど恋がない】状態。大好きなアーティストや友達はいて、そういう人たちを大切にしたい、幾らでも話をしたいし、「あぁ、私この人達のこと好きで良かった」って思ったことも何度もある。ただ、世の中の人たちが何かに対して抱く「恋してる」って感覚が存在しない。ただ「好きだから」じゃなくて、「好きで、恋してるから」何かをしたい、って感覚がない。伝わるのかな。

 

恋人が友達より優先される風潮も理解出来たことがない。

例えば、前々から2人で一緒に行こうって約束してた花火大会の1週間前とかに友達に彼氏が出来た時、「いいの?私(友達)なんかと行って、彼氏と行きなよ!」って言うの。

なんで急に、そんなぽっと出の人間がこれまで2年3年と友達だった私を越えられる訳!?!?そんな訳なくね!?!?私たちが積み上げてきた歴史は、対話は、関係性は!?なんだったの!?!?!?!?!?

と言ってしまいそうになるのを堪える人生を送っている。"恋人"というだけで友達とは違う感情を抱いて、急に愛を伝えあったりして、なんなんだその関係。怖すぎる。

 

また、自分の行動の源泉を恋愛にされるのを異様に嫌がってきた人生だった。水族館に行った日、私は白色のワンピースを着て行ったんだが、朝私の姿を見た弟に「いいじゃん、初デートっぽくて」と言われたのが凄い嫌だった。褒められてるのに。そもそも私がAroであるかどうかの前に、人のやることなすことを全部その人が恋愛しているからだって言う風潮はクソだと思う。髪切ったら「失恋したの?」普段より華やかな格好をしていたら「今日デートなの?」 こういうこと言う奴マジで友達になりたくないね。

それは置いといて、私がアロマンティックだからそう思うのか、単純に私の中のつよつよクィアネスが私にそう思わせるのかは分からないが、褒められ文脈でさえ嫌な人はそんなに多くない気がする。

 

もう1つ理解できなかった話の例として、私の友達や家族の言う「恋人にキュンとする話」がある。

例えば、私の友達は恋人と待ち合わせをして、一日のうちで初めて顔を合わせた時、それまでも当然何度も顔を見ているのに「やっぱりかっこいいな、好きだな」と思うらしい。

他にも、「歩いてる時にぱっと顔見て好きだなって思う」「友達にはしないけど彼氏にはLINEすぐ返そうと頑張ってる、嫌われたくないもん」「別れたらどうしよう」など。ちなみにこの全部が私の中には存在しなかった。友達に抱く感情とは違う、大して根拠の無い好きという感情で心がいっぱいになって、嬉しくなったり不安になったりするんだな〜〜と客観的に思ったと同時に、私ってやっぱ恋愛的な好きって感情自体存在しないんだなって思うようになった。

 

やっとカミングアウトに向けた話になるよ!

 

月 水族館に行く

水 ハートストッパー見る

木 ACEアセクシュアルから見たセックスと社会のこと を買う

金 ★カミングアウトする

土 花火大会に行く

 

曜日は適当だけど時系列は上のような感じ。1週間怒涛すぎ!!!

 

 

水族館の日以降、自分は恋愛的に好きという感覚が無いんじゃないか、好きって、何??の考えに頭が支配され、来る花火大会(一緒に行く予定)のことを考えると泣きたくなっちゃう日々を過ごしていました。そんな中、母から、「少女時代ユナと2PMジュノの恋愛ドラマを見るためにNetflixに入ったよ!」という最高の知らせを受け、前々から評判の良かったハートストッパーを見ることに決めました。最初はちょっとずつ見るつもりだったのに、気づいたら2期最終話まで泣きながら見切ってた。ハートストッパーの感想はビビるほど書き溜めてあるのでそれはまた後にして、カミングアウトに関係する感想だけ言うね。

(⚠️以降ネタバレあり⚠️)

 

私はこれまでドラマよりはアニメと漫画で育っていて、海外のものを見るようになったのはハイスクールミュージカルに出会ってからだから、ハートストッパーが人生で初めて、登場人物が皆ナチュラルにクィアティーンで、LGBT当事者の生活を描いた作品だった。ニックが自分のセクシュアリティに悩む姿も、タオがぽっと出の友達の好きな人に友情を壊されそうで怒る姿も、全部私が求めていたものだったのに、初めてで。

そして、アセクシュアルアイザックというキャラクターがいた。アイザックは1期では光が当たらなかったものの、2期の最後にACEと大きく書かれた本を掴み取った。Aスペクトラムティーンが存在するコンテンツを、何度も言うが私は人生で初めて見て、とっっっても大きな勇気を貰った。あんな恋愛ばっかのストーリーの中にも、私は存在するんだって涙が出た。

また、ニックが母親に「自分はバイセクシャルだ」とカミングアウトするシーンで、ニックは母親に認められ、抱きしめられていた。そんなことってあるんだな。

ハートストッパーを見て、カミングアウトするということ、クィアとして生きていくことに若干の覚悟が出来た気もするし、全然そんなことない気もする。ただ、ハートストッパーは私の中の"人生における大切作品"のフォルダに入った。ありがとね。

 

 

この日の夜、ハートストッパーを見終わってTwitterを見ていたら、私の地元にクィアな本屋があると知った。商店街の中にある個人経営の店で、歩いて行ける。明日行こう!と決めて寝た。

次の日、1人で本屋に行った。見たことないZINEや本たちの中に、「ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと」という、前々から絶対欲しい!と思っていた本があった。

そんな絶対欲しい!と思っていた本を手に入れられなかったのには理由がある。まず、私の住む街には、本屋がない。正確には無くなった。電車に乗って行った先のチェーン店的な本屋にはそもそもアセクシュアルについての本が置いてあるようなコーナーがほんの少ししかないことが多い。通販は?と思うだろうが、私は実家住みでバイトも出来ない学生だから、誰にもカミングアウトしていない状態では「ACE」と大きく書かれた本が届いたら何を勘繰られるか分からない為に通販で買うことも出来なかった。

少し値は張るが、前日に「ACE」と大きく書かれた本を手に入れ抱きしめるアイザックを見てしまっているのに加え、次いつ来れるかなんて分からなかったので悩みに悩んで買った。

買った本をリュックに入れて歩き出した途端、なんだか自分がすごく誇らしくなって、スキップしちゃったね。(良いエピソードすぎる)

まだ本の内容読んでもないのに、自分のことが誇らしくなって、「あぁやっとこの瞬間が来た、ずっと待ち望んでいたこの瞬間が、私は私だよ」って叫びたくなった。ちょっと泣いた。

 

翌日、花火大会の前日。

一日中塾にいて、塾にいる間明日の花火大会のことをずっと考えてた。この前水族館の時に決定的に近くなった違和感と、自分はアロマンティックなんだということが結びついてしまった今、私はこの世に味方が1人もいない状態で生きていけるのかと自問自答を繰り返した。

夕方になって、段々決意が固まってきて、それでもまだ躊躇して、母へのLINEで「今日夜時間ある?」の言葉を書いたり消したりして、Twitterにも不安を喚いた。

https://x.com/nakashima_is/status/1689564815117987841?s=46

でもなんか絶対今やらなかったら後悔するし、人生なんでもタイミングでしょ!というハロプロの教えにより「上手くいかなかったらフォロワー慰めて❕」と言い放ち母にLINEを送った。

 

電車に乗りながら色んなことを考えた。母はアロマンティック・アセクシャルという言葉を知っているだろうか?どこまで理解しているのだろうか?昔自分が書いたブログや日記を読み返しながら、何を喋るかメモを作った。

 

〈メモの内容〉

・アロマンティック アセクシャルって知ってる?

・恋愛的指向、性的指向の存在

・去年の春くらいからそうかもと思い始めて、去年の冬にはブログも書いてること、確信した経緯

・今付き合ってる人がいること

・おすすめしたいサイト、本など(私はAセクAロマ部 というサイトと私が買ったACEという本を手始めに)

・この先変わることがありうること

・信頼していて味方でいてほしいから話した、他の人には言わないでほしいこと

 

実際に話す時も、「何を話すか考えてきたからスマホのメモ見ながら話す」と伝えて見ながら話した。私は落ち着いて話せたのでメモあって良かったと思う。

 

母をスタバに誘い、(近くで夜遅くまでやってる店がスタバかファミレスくらいしかなくて、家じゃない方が良かったので)ドーナツとホワイトモカを買って、話し出した。

「アロマンティック・アセクシャルって分かる?私それだと思うんだよね。」

って言ったら、母は、

「分かるよ、てか薄々そうだと思ってた。」

と言ってくれた。そこから、前述したようなことや前のブログにあったことをつらつらと喋った。沢山沢山喋ったけど、感情的にならず、冷静に、でも笑って穏やかに話せた。

 

母と話す中で、自分が本当にどう思ってたのか自分でも分かってなかった感覚や、シスヘテロの相手に伝わる表現を探すという点でより納得できる且つ伝わる言葉を見つけられたことが思わぬ収穫だった。思えば、恋愛という概念やそれに付随する一般的とされる感情・言動について、SNS上や文章の中ではあれど即座に反応が帰ってくる生身の人間と対話したことが無かった。

また、カミングアウトして、"この世に私が「アロマンティック・アセクシャルである」という前提で話が出来る人間が存在する"という安心感を得られたのは大きい。私が差別された時に反対してくれる人がいる。私が日々感じる辛さやクィアネスを感じるものに出会った時の喜びを伝えられる生身の人間がいる。これって想像よりでっかい安心感だった。

 

私の特権的な所があるとすれば、まず母親と信頼関係が結べていること、そして母がフェミニストであることだろう。そもそも、周りに信頼できて話が通じる大人が存在するクィアティーンって超少ない気がする。親も、先生も、友達も皆信用出来ないと感じてる人って結構な数いると思う。てか大体そうじゃない?

母親と信頼関係が結べていて、しかも母がフェミニストであるということは割と稀有だろうと自負しているし、私のカミングアウトが上手く行った要因の大部分はそれだろうと思ってる。ただ、母は世代的なアメリカ憧れと、男女二元論的な感覚を言葉の底に感じることがあるなど完全に賛同出来るわけではないけれど、母は会話が出来る人で、私の話を聞いてくれる人だから、話し続けることが出来るだろうと踏んでいる。

 

私は、何かあった時にすぐ文字にして記録してしまう癖(くせ)があるので、こんな長々と文字にしてしまったが、今回の件の中で何度も過去の自分のブログや文章を読み返したように、これからの人生でこのブログに私が感謝するかもしれないと思って書いた。それに、私たちAスペクトラムの人間は、LGBTという言葉がある程度広まった今でもなんか結構見えてないっぽいし、日本語で書かれたティーンの当事者の話もあまり見当たらないので、殴り書きで構成もままならない状態でも書いておこうというクィア魂もある。

 

埋め込んだツイートについても触れておきたい。

日本でクィアとして生きるの、辛すぎる。普通に、これまでの人生も辛かった分、「私、この感じのままあと何十年生きるの!?」とたまに考えては泣きたくなる。伝統的家族観(笑)に固執して、性教育を避け、マイノリティを見ないことにして、人々から多すぎる税を巻き上げ、不祥事起こしまくりの政治にももううんざりだし、そのせいでなのか変わらないメディアも、マジョリティの人々の意識も、ヘイター達の言葉も、全部が積み重なって絶望させられて、生きてることが抵抗になる世の中をあと何年生きるんだろうな。自分のことをクィアだと認めて、性的マイノリティだと認めてしまう怖さがあった。そんなの存在しなくていいはずなのに。選挙行こ。

ハートストッパーの中でもあったけど、自分はこのセクシュアリティです!って明言するのも難しいよね。セクシュアリティって変わっても全然OKだし、そもそもラベル(用語)も、私の為に使うことが第一であることは明確なのに、それを忘れちゃう時がある。それに、私は、言ったセクシュアリティが将来も変わらないという意味で使わなくていいことも、言葉が当事者の安心や連帯の為にあることも分かっているけど、世間の皆さんはそんなことさらさら分かって無いでしょう?推察するにね。そう決めつけるのも良くないとは思いつつも、Twitter上でも、政治家やテレビの中の有名人を見てても、決めつけてかかってしまうのはやむを得ないよね〜。だから、どれだけ何を説明して分かってもらえばいいんだろ、分かってくれるのかな、と考えてたらキリが無くて辛かった。

 

 

なんか辛いことばっかり書いてた気がするけど、私自身はアイドルオタク学生として割とハッピーに生きている。が、ハッピーで文句を言わない慎ましく生きる性的マイノリティは許してやるよ、という世間の目には対抗していきたいので、私は陰気で不健康で体力のない鬱経験のあるクィアでもありながら、ハッピーにも生きるぞという気概を忘れないようにしたい。

 

絶対大学受かってやりたい学問やりたいし、アゲアゲ編み物クラブもやりたいし、アンジュルムXGとゆっきゅんと藤井隆とこの世の全ての行きたい現場に行きたいし、同世代のクィア達と語り合いたいし、読みたい本全部読みたいし、やりたいこと全部やるんだ。この夏はこのカミングアウト以外にも色んな事件と変化があった夏で、きっと祖父母の介護とか父母の病気とかこれからも大変なことたくさんあるけど、全部文章にしてやるんだ。そうやって全部忘れてやんね〜し、いっぱい考える人生を送ろう。

 

最後に、

ひとしきり泣いたあと

知らない人に話しかけられた時

めちゃくちゃ泣きたいけど絶対泣けない状況で

最悪なニュースを見た時

マジ最悪大泣きしてるのに明日学校に行かなきゃ行けない夜

誰かにまだ言ったことの無いことを伝えに行く電車の中で

聞くプレイリストをここに貼り付けて終わりにする。

https://open.spotify.com/playlist/2hwKPSvWvK0sfTBeyubot4?si=aySrep7dRA-PjykKiJtYzw

 

 

 

 

追記

間違ってる用語の使い方とか、これってどういう意味?(ヘイターはお断りですが)とか、間違った認識や意見などがあれば(もし読んでいる人がいれば)私のTwitter(X?)にDMかリプくれると助かります。